サン・フランシスコで一生のほとんどすべてを過ごしてきた
日系2世の女性が、久しぶりに来日されました。
4年前に亡くなったご主人も、2世でした。
お二人は、第二次世界大戦中に、アメリカ国内の日系人収容所で出会い、
結婚されました。
お二人に子どもが無いこともあって、私はものごころつく前から
実の子どものように可愛がってもらいました。
(「養女にしてもらったほうが幸せだったのかもしれないね」と
今でも親が真顔で話すほどです。)
ご馳走にあずかる時は、いつでも「ノー・エンリョよ!」と
おっしゃっていたことを忘れません。
(「遠慮」とぴったり合う言葉が、英語には見つからなかったのかも。)
季節の行事ごとに送ってくださるグリーティング・カードや
ハロウィーン、クリスマス、バレンタイン、イースターのお菓子。
来日されるたびにいただく、珍しいおみやげ。
それらは、成人してからもずっと、ご主人が亡くなり、
奥さまがグループ・ホームに入られるまで、つまりごく最近まで続きました。
頂戴する品物自体がうれしかったのはもちろんですが、
それは「遠くから、あなたのことを思い続けているのです」という
意思の伝達でもありました。
お二人を通じて、そういうことを肌で学ばせてもらったのでした。
身の回りの面倒をみている方が同行してくださって
やっと実現した今回の旅ではありますが、
軽いパーキンソン病を抱えて車椅子での生活を余儀なくされていても
「このタイミングを逃さずに、日本へ。そしてみんなに会おう」と
お一人で決心されたそのこと自体に、こちらの心が揺り動かされる気がしました。
若い頃から、決して自己主張の激しい方ではありませんでした。
静かで優しい言動の塊のようなこの女性の
どこにこんな強い意思が隠れていたのでしょうか。
ピンク色のゆったりしたセーターにカーディガン。
未亡人になってからは黒く染めることもなくなりましたが、白髪を短く切り揃えて、
きちんと薄化粧して、白いパールのマニキュアを塗った爪もぴかぴか。
大粒のダイヤの指輪も、「この貫禄でこそ、お似合いなのだな」と納得します。
戦争中のおつらかったこと、2世としてアメリカで戦後を生き抜いてこられた中で起きた、
たくさんの出来事と、複雑に揺れる心。
日米間の有様の両方を知っていればいるほど見えてくるもの。
2世でありバイリンガルである、ということは、
文字どおり二つの異なる文化や祖国を背負って生きる、ということであり、
時にはその片方をあきらめたり切り捨てたりする覚悟を抱えて生きる、ということ。
そのような事柄を、本当は丹念に聞き出し、書きおこし、残す努力を
私はすべきだったのではないか、
いや、それには思い入れがありすぎたし力量も不足していた、
いや、力不足を言い訳にしてはいなかったか、と
今、次々に後悔まじりの想いが巡ります。
夫妻が愛し、長く長く生活の拠点とされた、
サン・フランシスコ市街を見渡せる丘の上のお屋敷は、
今春ついに人手に渡ってしまった、と聞きました。
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