最近気になっている妙なこと。
それは、名言・名句・格言・箴言・聖句、などなど、
すでに長年使いに使われている‘ありがたい’言葉の集合のことです。
ある(良くない)状況に追い込まれた人、
苦境の中にある人たちの心の拠り所として、
また、心の的のようなもの(があるとしたら)の真ん中を貫き
まさに私たちの心の内を言い当てているかのような言葉の集合。
力強くて、説得力も抜群。
口下手な人が唱えても、ある意味便利に人の心へ届きます。
ただし、そこに本当に「ぴったりと言い当てている」という事実が
存在するのだろうか、ということを考えています。
「ぴったりと当てはまっている」という心地良さや、
救いを得たという確信があったとしても
それは実際には「近いところ止まり」でしかないのでは、ということ。
説得力のある言葉の集合が自分よりも先に存在し、
その力に押されるかたちで
人は自分の本当の感情、本当の心の的を、
たびたび把握しそこなっているのではなかろうか、ということに
思い当たっています。
自分の感情、自分の状況を、自分自身の言葉で正確に捕らえ、
表現しようとする努力と誇り。
借り物ではない言葉で生きるという道が
険しそうである、ということだけはわかりますが、
それから先は未だよくわかりません。
借り物の言葉でしか生きていないとすれば、
それは、映画やドラマに出てくる安っぽい脅迫状のように、
いろいろな印刷物から切り抜いた活字を寄せ集めた
空虚なメッセージに等しいのではないのでしょうか。
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