表題だけでは「何のことか」と思われる方も
おられるでしょう。
ボリショイバレエ団の『ジゼル』(Season19/20)
新(ラトマンスキー)版録画を映画館でチェック。
ベルトは主人公ジゼルの母親の名です。
古典中の古典。好きな作品ですが、「新解釈」ということであちこちに
手を入れた結果、いじり過ぎた感が否めないものになってしまったように
見えました。盛り込み過ぎて‘やや膨れた’ような印象、とでも申しましょうか。
生身の人間の表現は、これからどこへ向かうのか。そして、それを
今度は「中継~録画」という商品にして残すにはどうあるべきなのか。
難しいですね。古典を古典のまま、シンプルに再現するだけでは、概して
今の時代に制作し直す意味が薄く、集客の効果も低い、ということでしょうか。
(細かい古典の読み解き直し、ステップやフォーメーション、マイムの再考作業
には最大の敬意を表しますし、それらに対する細かい批評は他へ譲ります。)
例えば「うっそうとした黒い森」だけがステージ上にあれば足りる時に
何やら建物が具体的に描かれた背景は要らないでしょうし、「ジゼルの霊が
スーッと空中を飛ぶ様子」を表すのに、本当に舞台上で(装置によって)
ダンサーを吊って飛ばさなくても、その表現は充分に可能なわけで。
音楽や照明なども、もちろんそれを助けもすれば、殺しもします。
むしろ、シンプルなホリゾント幕だけで雄弁に語るものの方が多いことも
あるだろうなぁ、そうあって欲しいなぁ、と思いながら映像を観ていました。
往年の名プリマ、リュドミラ・セメニヤカ(1952- )、現在は後進の
指導に・・・と思っていたら、なんと、ジゼルの母親役で舞台上に。
私はもう、彼女ばかり観ていました。頑迷な農婦に詰まった深い愛情。
特に目新しい演技をするわけではないのに、その役はくっきりと
群衆の中で浮かび上がり、物語をまとめ、下支えしているのでした。
主役中の主役として名を馳せた人が、脇役でその母親役を演じる・・・。
本人のプライドや周辺の状況がそれを許さないことのほうが多いのでは
ないでしょうか。
例えば、森下洋子さん、吉田都さんは、それを演るのか・・・演りませんよね。
洋舞というジャンルの中で、日本は優れた踊り手を産む国になった、とは
言えるのでしょうが、未だその進化するべき先が、たしかに在ります。
先を行く国の作品にいつも詰まっているのは、長い歴史と伝統と権威。
それから、深い懐。懐は闇も含んでおりますね。おそらく。