(ダンスに手を染めることが彼で)一代目ではなかった、ということ、
ヨーロッパで学び、吸収し、吐き出そうとしたものが、
日本のダンス界のニーズにタイミングよくピタリとはまったこと、
自作や自身の活動について、ダンス以外の手段で、例えば、
言葉による意味づけや分析をやってのける能力も培ってきたこと。
それらが、ないまぜになって、金森穣(かなもり・じょう)のわが国における評価、
そして人気は、堅固なものになりました。
かの熊川哲也とは、また趣を異にした活動、作風、そして人気です。
あの若さ(74年生まれ)で、04年に、公的な資金のバックアップによる拠点
(新潟市のホーム・シアター/りゅーとぴあ)を持ち(つまり任され)、
独自のコンセプトで選んだダンサーたちで構成されるカンパニー
(この名がNoismです/「のいずむ」あるいは「のういずむ」とも読めるでしょうか?)を
ディレクションする、という、わが国では稀有の経験を積んでいます。
(彼は現在もダンサーとして踊ってもいますが)
振付家としての彼と、ディレクターとしての彼がせめぎ合うところに、
私は、ここ数年は個人的な興味を集中しており、
彼の振付作品そのものに評価を下すことは好みません。
いや、これから自分で踊れなくなった後こそが、もっと興味深いかもしれません。
そもそも、「ダンサーたちのエイジング」には、
考えさせられるものが多数あります。 (これはまた別の機会に論じます。)
久しぶりに金森穣のカンパニーの作品『Noism 07 W-view』を観ました。
彼の先輩格にあたる女性の振付家2名の作品、2部構成です。
安藤洋子はドイツ(振付家、フォーサイス)、
中村恩恵はオランダ(振付家、キリアン)の影響濃く、
性格も作風も異なるものを見比べることのできるプログラム。
カンパニーが旗揚げした時の衝撃的なエネルギーは影をひそめ、
ずいぶん一般にもわかりやすい表現に、こなれてきたと思います。
「メガロポリス」東京のど真ん中に本拠を置いていないことが
何か良い効果を生んでいるのかもしれません。
それは、「最先端」からは、はずれていることかもしれないのですが
多くの観客が「地道な何か」を感じることができる、というものです。
それにしても、コンテンポラリーという‘くくり’に入れられるダンスは
何故いつも「心の奥の闇」や「つらさ」を覗き込むような場面を
たくさん提供したがるのでしょうか、ね。
こんな時代ですから、癒しや楽しさを、そしてユーモアを、
もっとたくさん盛り込んだ名作が、一つや二つ、生まれても良いのに。
それから・・・「アフター・トーク」、あればつい聴いてしまうけれど、
要らないかもなあ、といつもいつも思います。
予備知識ゼロの門外漢が観ても「ハッ」とする、鳥肌を立てる。
そんなパフォーマンスだけが本物。
本物にはトークは要らないはず。ダンスを観に行くのですから。
※Noismと、りゅーとぴあの詳細はこちら↓↓↓から
(この後、今月は、岩手と札幌で、上記でご紹介の作品を上演予定)
http://www.noism.jp
※金森穣の公式サイトはこちら↓↓↓から
http://www.jokanamori.com
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