先日、仲が良い女性たちの集まり。 久しぶり。
ドラマに出てくるような、雑誌が「典型」と定めているような、
そんな絵に描いたような年配の主婦たちもおられました。
幾日も経ってから、その時に交わされた会話を
頭の中で反芻していると・・・
「あれは、おばちゃんたちの見えない張り合いだったのね」
というようなものに、やっと気づいたのでした。
「どこそこへ行った」「何を買った」「何を身に着けている」
「何を食べた」・・・そして、(ペットも含む)家族の動向(のうち、誇らしい話題のみ)。
あぁ。仲が良い同士でさえ、こんな具合かー。 わずらわしい。
よぉく考えたら、こんな‘張り合いっこ’の真っ只中に
私は立たされていたのか、とやっと気づいた次第。
本人たちにとっては、たぶんこんなのは
特別のバトルでもなんでもないのでしょう。
私の興味はまるで違うところにあるので、
こういうことにすこぶる鈍いのです。
鈍いからこそ、なんとか精神状態も健康に保たれているのかも。
もっと言えば、鈍いことが自然な防波堤になっているのかも。
小さい人たちとか、お年寄りとか、異性とか、
遠くに住んでいる人とか、国籍の異なる人とか、
もうとっくに亡くなってしまっているクリエーターとか、
とにかく視点も興味も価値観も離れている人たちの生き方の中に
本当に自分の栄養になるものがたくさん埋もれている気がします。
一度しかない限られた人生の時を、私はどちらかというと
そのような方向に進むために使いたい、と思っています。
自らの「個」と「孤」を飼いならしながら、そのような方向に。
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