ピナ・バウシュ(Pina Bausch 1940年 ドイツ生)。 憧れの振付家の一人。
容姿も雰囲気も活動も、‘優しい魔女’みたいでした。
「何もかも、彼女にかかったらお見通しだった」「見えないはずのものが
見える人だった」などと、実際に多くの関係者が証言しています。
2009年6月にピナが突然亡くなって、その後カンパニー
が日本で公演した際にも観るチャンスを逃したので、
今回のこの3D映画は、長い間楽しみにしていました。
ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)監督作品。
ところが・・・3Dというのは、(この映画がどうのこうのと言う前に)
自分のセンサーが慣れていないのか、「人工の立体画像」という具合に
見えることがあり、それをどう理解しようか考えている間に、
映像はもう先へ進んでいる、というありさまで、よけいに疲れました。
むしろ、途中で使われるピナの生前の記録映像、
特にモノクロの、平坦でシンプルな映像が、大変に力強く、
しかも繊細に、彼女の言いたかったことを切り取っているように
思えてならなかったのでした。 皮肉な好対照。
この点が、私にはたいそう興味深くて、観終えた後も
何度も頭の中で映像を反芻しながら考え続けているのです。
平坦な映像から読み取った空間把握や距離感を、
自分の経験的な感覚や想像力を駆使しながら補う、
あるいは、本物以上にリアルに、意識の中で(こそ)
構築することができるのではないか、ということ。
リアルすぎる映像は、その快楽を提供してはくれないのでは、
ということ。 手法としての3Dを全面的に否定はしません
(未だ深く理解するところまで行っていません)が、
こればかりに特化してゆくのには危機感があります。
映画の内容ですが、「ピナの活動や作品の記録」「ピナへのオマージュ」と
位置づけるのは簡単ですが、そのピナの元で、「一人ひとり、人格も表現者としても
ピナから認められ、育まれてきたダンサーたちの、仕事の経緯や記憶の総括」
として、私は受け取りました。 ダンサー一人ずつの顔のアップも、多くを語ります。
髪の毛や風や砂粒や水滴や衣裳の艶々した光などの細かいニュアンス。
これらは3Dによって、より明確に‘語る’ところもあったように思いました。
生前に舞台を何作か観ていますが、本当は、歳をとるほどに、
彼女の作品の意味が、より深く身体の中に染みとおってくるように思います。
若い時には、いかにも読みが浅かったな・・・これからもっとおもしろくなるのかな、と。
そういう意味でも、急に旅立ってしまわれたのは残念です。
「急に」は、いかにもピナらしいのですけれどね。
現代社会においては、「生きるためには、特別な人格や能力を認められない
仕事もやむなし」と、何かをかみ殺すように生きている人たちも大勢いるわけで、
このピナを中心にした宇宙の奇跡的な調和とその成果が、なおさら
多くの人たちの胸に響くような気がしました。
ことさらダンスに詳しくない人にも、その点は伝わるのではないでしょうか。
ちなみに、原題は「Pina - Dance, dance, otherwise you are lost」。
本人の残した肉声で、本作品の最後に紹介されています。
どう訳をつけたら一番ぴったりくるのでしょうかね。
「No dance, no life.」と似ているような、似て非なるもののような・・・。
※ 『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』 (2011年)
公式サイトはこちら↓↓↓から
http://pina.gaga.ne.jp/
※ 実は、もう1本、2010年に作られたピナ関連の映画
『ピナ・バウシュ 夢の教室』も近日公開されます。
ダンスと縁の無かったティーンエイジャーたちが
ピナの作品を踊るなんて! こちら↓↓↓も要チェック。
http://www.pina-yume.com/